なぞなぞは謎のままで良い・・・の鴨!?
一見すると絶対的にみえる定義って、実は一部については、荒唐無稽だと個人的には思ったりもするのです。
曖昧な境界線とは、誰が何のために引いて、それを集団的に頑なに守り続ける事の重要性って、何でもかんでも重要視し過ぎる傾向にありませんか?
日本人は特にその傾向がどうやら強いようです。
例えば、サッカー1つ取ってみても規律と秩序を重んじる組織的な「ディフェンス(守備)」は、日本の国内リーグのどのチームも固くハイレベルです。その特徴はもちろんナショナルチーム(日本代表)でも顕著にみられます。
しかし、サッカーの「オフェンス(攻撃)」に関しては未だ発展途上で、チームのコンセプトや監督の戦術を差し引いてもイマジネーション(創造力)× アイデア(閃き)が、規律と秩序を重んじることが得意過ぎて、自由な発想に少々欠けるのです。
- 常識に囚われ過ぎている人が身近にいらっしゃり、大変な思いをしている人
- 常識を過剰に押し付けられて困っている人
- 自分自身の常識(概念)を壊して、新しい自分自身を探究したい人
- スピリチュアル差別に合っている人・困っているが公に言いずらい人
- 「覚醒者」や「覚醒」ばかりの発言に飽き飽きされていらっしゃる人
自分自身で基軸としているものに対して、本当は自信がない人ほど「馬鹿の一つ覚え」を強く押しつけて、他者の介入を誰よりも恐れているのかもしれません。
そして、プライドの高い傾向にある人に多くみられるのかもしれません。
- 常識って何処まで通用すると思いますか?
- 普通ってなんでしょうか?
- スピリチュアルってドコからスピリチュアルで、ドコからスピリチュアルではないのでしょうか?
- 覚醒者の定義ってなんでしょうか?
定義と境界線
機能していても良いもの(ある程度の秩序を生み出す法律やマナーなど)は沢山あるのでしょうが、囚われ過ぎていても開拓者に成ることは難しいかもしれませんし、新境地に軽快なステップで踏み出せない足枷になってしまっている人は少しもったいないかもしれないと個人的に思ったりもします。
近年やっと多様性への理解が少しずつ広がりをみせ始め、徐々に理解や進歩が集合意識的にも徐々に現れ始めました。しかし、まだまだな現状はどうしても時代遅れ感が否めないような気もします。
例えば「民意」って常に正しいのでしょうか?
多くの人々が意図的に価値観を擦り合わせられている本質にも気付かず、偉い肩書の人々がこう言っているのだから、とりあえず賛同しましょう?みたいな雰囲気。
多くの人々に支持されている人がそう言っているのだから、よくわからないけど乗っかっておけば良いでしょう?という半ば諦めも混じる空気。
「長い物には巻かれろ」姿勢を強く頑なに思想で持っている日本人が多いのだから、深く理解せずとも黙って従いましょう?という昔ながらの伝統的な感覚。
自分も善人であることを疑わず、普通であるって思い込み、社会的に落ちたとされるような有名人を一斉に寄ってたかって、ネット上の匿名で叩きのめすのって・・・果たして素晴らしいことなのでしょうか?
少し冒険して「民意」の濁流から抜け出したりすることも選択肢の一つとしてみませんか?
そして、どうしても納得いかない際など、ときどきでもNOと胸を張って言えるようになってみませんか?
なかなか難しいかもしれませんが(笑)
常識って何処まで通用すると思いますか?
過去に三次元上で私の身近な人に「常識」という言葉をことあるごとに連呼していた人がいらしたのですが、その常識はあくまで「井の中の蛙大海を知らず」状態なのでは?と当時から大いに疑問に思っていました。
私もけっこう独りで「井の中の蛙大海を知らず」状態に陥っていることは、お恥ずかしい話ですが、よくあります(笑)
「されど空の深さ(青さ)を知る」には、そんな自分自身に気付けたあと、大幅な時間が掛かりることな気がします。
最も大多数のスタンダードな大人達が形成される「常識」とは、教育課程でインプットされた事を中心として、勤務先(仕事関係)・家庭・友人関係・子供の親御さんとしての関係性・田舎だと根強いご近所関連などの要素で構成されると、大まかには思うのです。
しかし、その「常識」が構成された区画から外れた大多数の人々に対してどれほど通用したり、通用しなかったりするのでしょうか?
あくまで狭いコミュニティの中に居続ける事で保たれている“だけ”である可能性は残念ながら高い傾向にあるのかもしれません。
経験談として、私の兄弟は海外で生活していて、結婚し、パートナーは外国人なのですが、彼等が家に帰国してくれた際に家庭内では普段の「常識」のほとんどが通用しません。彼等もこちら側に合わせようと、かなり無理をさせてしまっているなぁとしみじみ思います。しかし、「常識」を擦り合わせることは、なかなか難しいというのが、素直な気持ちです。
極端な話ですが、「常識」を重要視し、周囲に強要する人ほど、実は「常識」がない可能性もあるのではないでしょうか?
常識に縛られ過ぎない柔軟性や異なる「常識」をもった相手への理解や尊重なども大いに大切です。
普通ってなんでしょうか?
漢字:普通(読み:ふつう)
【名・形動】特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
【副】たいてい。通常。一般に。
【用法】ありふれている、珍しくないの意。特に変わりがない・平均的・一般的なの意に使われる。
「なんで普通にできないの?」などと、幼少期の頃頻繫に親から教育の一環として言われた人も多いのではないでしょうか?
また、当時自分自身が心底嫌だったのにも関わらず、自分の子供に対しても頻繫に言ってしまっている人もいらっしゃるかもしれません。
おもしろい事実ですが、「普通」という定義も明確にはありません。
仮に「普通」という概念を明確に決めましょう!とした場合はどうなるのでしょうか?
【 満場一致のパラドックス 】
満場一致は一見すると、最も信頼性の高い正しい選択肢のようにみえます。
しかし、実は多数決の際に意見が極端に満場一致に近づいていった場合、総意と思える意見の信頼性は実は逆に下がってしまうというパラドックスが生じるのです。
多数決で1つの意見が100%投票されるという“状況こそ”が、おかしな状況である為です。
注※事象が明らか過ぎる場合、そもそも多数決を取る必要性を全く感じない例えば「4本のフォークとスプーン1本を不規則に並べ、どれがスプーンなのか当てる」などは除きます(笑)
『確証バイアス』が起こり易い状況こそ、最も注意が必要となります。
『確証バイアス』とは…自分自身である程度予測が立った後には、自分にとって都合の良い情報ばかりを集めて、先入観を強めてしまうことです。
他にも『系統誤差』や『同調圧力』などの問題点もあります。
【 投票のパラドックス 】
複数の選択肢の中から多数決を取って、決定する際に多くの人が望む結果になる!・・・“わけではない”という事実です。
おもしろいことに場合によっては、誰も望んでいない結果になってしまうというパラドックスが生じるのです。
残念ながら、理論上は完璧な投票システムなど存在しないのです。
≪一人一票『単記投票』の欠陥≫
最も選択したくない事象がそもそも考慮されていないのです。
そして、「票割れ」も起こりやすいのです。
票割れとは、似た選択肢の中で票が分かれてしまう可能性も単記投票には考慮されていません。
≪一人好きな複数の事に一票ずつ投票『是認投票』の欠陥≫
あまり望まれていない中間的で平凡な選択肢が選ばれやすい傾向が圧倒的に高いのです。
≪一人一人が順位付けし、加点制で、その合計得点で順位を決定する『ボルダ式得点法』の欠陥≫
関係ない選択肢によって、他の候補の順位が入れ替わる事があります。
≪1対1で勝敗を付けて、総当たり方式での投票『コンドルセ投票』の欠陥≫
「コンドルセ循環」が発生しやすいのです。
コンドルセ循環とは、簡潔に説明すると、じゃんけんの様な状況が生まれるということです。
※1951年 ケネス・アロー によって「3つ以上の選択肢から投票を行う時、完全に民主的な投票システムは存在しない事」が数学的に証明されました。
どんなシステムで投票を行っても致命的な欠陥があり、多数決(投票)というシステム事態が、実は正確に機能していないのです。
謎のうんちく披露で、疲労困憊ダークヒーローです(笑) ※えぇ、私のお笑い能力はこの程度です!
「普通」を決めることは、難しいということです。
スピリチュアルってドコからスピリチュアルで、ドコからスピリチュアルではないのでしょうか?
「うわー!この人スピリチュアルだよ」
などと、メディアの露出の多い有名人などの何気ない発言(差別的な発言)に感化されて、さも当然化の如く、自分自身の発言としてアウトプットされていらっしゃる人って未だに多いですね。
直接言われなくても傷付く人もいらっしゃいますよね。。。
自然と言葉にしないように秘かに心掛けている人も多いのではないでしょうか?
会話の中でも積極的にスピリチュアルという単語を敢えて使わないように心掛けていらっしゃる人も多いかもしれません。
しかし、私の個人的な毎回の疑問として、「ドコからがスピリチュアルなんですか?」とは思っていました。
器用な人ってスゴイですよね。普段は公にスピリチュアルに否定的なスタンスにも関わらず、怪しいスピリチュアルブームには、何の躊躇もなく率先して乗っかれちゃったりするのです。
表向き否定的なスタンスでありながらもこっそりと独りの時間に実は誰よりも一生懸命行っていたりするのです。
おもしろいですが、逆に大変そうです。
ドコからがスピリチュアルなのか?ライン設定に一貫性はありません。
敢えて私の個人的な発言させていただけば、「本質は、全てがスピリチュアル要素で構成されています(笑)」みたいな感じです。
スピリチュアルへの偏見的な境界線のライン設定も日に日に後退していっているようにも私は感じますが、皆さんは如何でしょうか?
覚醒者の定義ってなんでしょうか?
「覚醒者の定義」って「覚醒者」という言葉を使っている人によって異なるのではないのでしょうか?
独自のラインを境界線として発言されていらっしゃるのでしょうが、総じて「一貫性」はないように思います。
私には確固たる覚醒者の定義が無いので、自分自身の事を覚醒者だと思いませんし、覚醒者でないとも言えません。
私が何者かは見てくださる皆さんが個々に独自の視点で決める事であって、私は自分に付けられる肩書きなど、心底どうでも良いです。
そして、セッションで仮に「覚醒者に成りたいのだけど、どうすれば良いですか?」と問われた場合は、先ず100%「あなたにとっての覚醒者とは何でしょうか?」と質問を返すことになるでしょう。
なぜなら覚醒者という不可思議な肩書きに個人個人バラつきが大きくあるためです。
番外編
「ありのままの自分でいる事が大切だ」という発信者の人を叩く人々
「ありのままの自分でいる事(更に継続的にその状態を保つ事)」って意外と難しいです。
私もその通過点を通るまでは、大いに苦労しました。
しかし、発信者の人のコメント欄や全く別の所で、発信者の人を大いに叩く匿名ネット弁慶さん達も沢山みました。
彼等の言い分を簡潔にまとめると、
お化粧やファッションが「ありのままの自分」ではないので、家着(スエットやジャージ)ですっぴんで出演して、はじめて「ありのままの自分」に説得性が出るのでは!?
みたいな感じだったのですが、容姿ではないのです。
どのようにお化粧をしようが、何を着ようが、本人の自由だと思うのです。
お化粧やファッションで個性を存分に発揮・表現されていらっしゃることは、素晴らしいと思うのです。
重要なのは、内面(精心)です。
結論みたいなまとめ
3次元的な日常の積み重ねで培われ、いつの間にか強固に囚われている境界線の外に先ずは一歩出てみませんか?みたいな実は軽い感じのご提案でした。
意外と幼少期の頃の純粋で自由の幅広い感覚を思い出せて、現状に対する解釈の幅も大いに広がる可能性は、充分ある人も沢山いらっしゃるかもしれません。
そうは言っても3次元的世界観の根強いお仕事関連を中心に難しいですよね。私もスピリチュアルと現実の狭間で6~7年悩み続けました。
現在の私(この記事を書いている時点)は完全にスピリチュアルに振り切って、3次元的なルールや曖昧な境界線に改めて向き合っている真最中です。
現在の私が言える事は、いったんスピリチュアルに完全に振り切ってしまった方が結果楽だったなぁと、私の場合は思いました。
また、スピリチュアルの常識や概念などが、どんどん自分自身の中で構築されていっている人も現状に囚われ過ぎず、常にアップデートするような柔軟な姿勢でいられたら、楽なのかなぁと思いました。
一生懸命何かを掲げている(本来どーでもよい)ものを必死に守る人は、大変そうです。
大学時代に卒業研究の教授がよく言っていたのは「説教とは、感情的に怒鳴ることではなく、説いて教えることだ」と。
思い返してみても怒られた記憶はありません。とても明るく、ポジティブな教授でした。
今回の記事は、私が未熟な状態で発信した為、教授の様に楽しく「説いて教えること」ができたかどうかは定かではありません。
いずれはできるよう精進したします。
最後までお読みいただき、感謝でござる。