8月31日はやさいの日!?
注※ヴィーガンの人をただ批判・非難しているわけでは、断じてありません。切り取って解釈され、被害妄想に浸られたり、部分的に引用して誰かを傷付けることなどないようにお願いいたします。
スピリチュアルな媒体でたまにお見かけするのですが、「お肉は絶対に食べてはいけない!」や「たばこやアルコールなんて厳禁!!!ありえない!?もっての外・・・」みたいな過激な発信をたま~におみかけするのです。
それらの発信を真に受け過ぎて、忠実で従順に教えに従っても率直に申し上げて、中には遠回りの人もいるのかもしれません!という検討回です。
私は過去にスピリチュアル動画を個人的にアップしていた時期があったのですが、ヴィーガンの人って、特に批判している訳ではないのにも関わらず、過剰に反応される(過剰防衛本能が大きく出てしまう)傾向にあるのかなぁと少し気になった次第です。
では、何故そこまで過剰に反応している(過剰防衛本能が大きく出てしまう)ようにみられてしまうのでしょうか?
回答はシンプルで、自分自身を少し無理をなさって捻じ曲げて、努力を重ねてきた日々を否定されてしまう(本当は間違っているのかなぁ?と心のどこかでは思っていてもそれを本当に自身で認められるようになるまでは、頑なに核心に触れられたくない)のかもしれません。
- 身近にヴィーガンの人が居るが、どんな人なのか知りたい人
- 周囲にヴィーガンの人が居て、積極的な布教活動に少し困っていらっしゃる人
- ヴィーガンの教えを頑なに守ってはいるが、進歩が今ひとつな感覚がある人
- ヴィーガンになってはみたが、内心実は、がんばって無理していらっしゃる人
今回の記事の本質は、ヴィーガンの人に対して過激な気付きを与えたい訳では断じてなく、ヴィーガンに限らず、かたくなに守っているスピリチュアルなスタンス(自分ルール)って本当に正しいのでしょうか?と冷静に考えたり、振り返ったりしていただけたら幸いです。
また、ヴィーガンでない人は、ぜひご自身の問題(かたくなに守る自分スピリチュアルルール)に置き換えて、俯瞰の視点で、冷静にあらためて自分自身を見つめ直してみましょう!みたいな感じです。
- ヴィーガンとベジタリアンの違い
- 何故ヴィーガンが推奨されるのか?
- 発信者の人が何故ヴィーガンをマスト事項として、受け取る側は見えてしまうのか?
- スピリチュアル的進歩とヴィーガンの致命的欠点とは
- お坊さんの修行と覚醒者の関連性について
- まとめとひとり言
食べ物とスピリチュアルは、関係性が深いようにも思いました。
「腹八分に医者いらず」とも言われますが(笑)
ヴィーガンとベジタリアンの違い
先ずはそもそもヴィーガンとは?何なのか。また、ベジタリアンとは何が違うのか?から簡単にみていきましょう。
ヴィーガン
【 食品制限 】
肉・魚・卵・乳製品・動物油
【 食事以外の気遣い 】
動物の皮などの製品を使用しない
ベジタリアン
【 食品制限 】
肉・魚
【 食事以外の気遣い 】
人それぞれ
ベジタリアンの集合体の中にヴィーガンの人々がいるみたいな感じでしょうか。
オーガニックとは!? 似て非なるもの?
オーガニック(Organic)という英語を日本語に訳すと「有機」です。
オーガニック(有機)とは、農薬や化学肥料などの化学物質を使用せず、太陽や土、水・微生物や昆虫など自然の力を活かし、生産された農林水産物や加工方法のことを指します。また、自然のあるがままの食物連鎖を目指すことなのです。
ただし、無農薬栽培のお野菜とオーガニック(有機栽培)は異なります。その違いとは、化学的に合成された農薬の使用は原則禁止されていますが、オーガニック(有機栽培)は有機JAS規格で定められた農薬については、使用が可能な点です。
需要が高まっている主な理由については、「安全」「美味しい」「健康に良い」「環境にやさしい」など多くのことが挙げられます。
近年では食品に限らず、飛躍的にオーガニック製品が増加傾向にあります。
私自身実は、オーガニックを取り入れたのはここ数年であり、しかも種類が豊富な食品ではなく、たばこです。
極端な話、だったら何もかもオーガニックにすれば良いのではないか?みたいな思想も「水清ければ魚棲まず」状態に陥りそうです。
「水清ければ魚棲まず」…水か綺麗過ぎると、かえって魚は住まない。人格が清廉過ぎると、かえって人に親しまれない。 ※私は人格が全く清廉過ぎないが、親しまれていない!?(笑)
何故ヴィーガンが推奨されるのか?
動物愛護の観点や地球に優しい発想から生み出された素晴らしい思考・思想の1つですよね。
ワンフォアオール・オールフォアワンで、人間と動物の生命の境界線をライン設定しない。おまけにエゴの解消にも一役買っているお得感は満載といえるでしょう。
あと実は、政治的に推奨されていることをご存知でしょうか?
どこか大衆と共に差し向けられている感覚は、感じたことありませんか?
なんだか媒体を通して、共感させられている節などはありませんか?
気のせいかもしれません(笑)
発信者の人が何故ヴィーガンをマスト事項として発信しているように見えてしまうのか?
①憧れと真似・コピー
発信者の人の発信・表現力のさじ加減にもよるのですが、実は単に受け取る側の問題というケースも中にはけっこうあるようです。
発信者の人は、自分自身の経験を話しているだけなのに「真似をすれば発信者の人みたいになれるのでは!」と情報を受け取る側が誤解し、勝手に解釈していることもよくよくお話を伺うと、多々あったりもします。
3次元(第3層)では、幼少期から年上の兄や姉の真似をすることで上達が早いことを長男長女でかつ第一子ではない人であれば、わかりやすいことの1つです。
私の兄弟も年上である私の失敗を目の当たりにしてから行動していたので、私よりも年下の兄弟の方が、圧倒的に優秀でしたし、要領も良かったです。
②天使や龍神・ハイヤーセルフなどの魅力的な存在
第5層とは、究極の二元論の層(エゴの顕著な層とも言えます)です。
第5層では、比較的知名度の高い存在(天使や悪魔・ハイヤーセルフなど)が、多数在籍しておりますので、3次元(3層的)な人間の視点だと魅力的にみえる人が多いのでしょう。
そして、第5層に捕らわれ過ぎてしまっている人の傾向は、終末論や罪・恐れ、疑いや罪悪感を根底とした情報をアウトプットするのです。
第5層では「何かと引き換えに何かを得る」のですが、簡潔に例えると、いわゆる過酷な “修行” を経験した上で、進歩を得なければ、絶対にいけない!みたいなことです。少し重い思想かもしれません。
注※層と次元は異なります。層は7つの層で構成されています。
修行に見立て誓約を立てて、忠実に守り続けていてもそれによる進歩・成長って、たかが知れている人の方が、実は圧倒的に多いのかもしれません。
しかし、多くの人は何かを得る為には苦労しなければいけないみたいな潜在意識(思考パターン)が、3次元的世界観の経験値から根強いことも事実です。
教育課程で勉強や運動然しかり、お仕事しかり、「日々の努力を積み重ねてこそ、成功を得る者成り」みたいな傾向は、なんだか根強そうな感じがしませんか?
かつては、私もこれこそが正しく、そうでなければならない!と、強く思い込んでいました。そして、私もいつの間にかその状態で過酷な日々を十数年過ごしましていました。
しかし、「苦労しないで、楽して進歩して何が悪いのでしょうか?」と手のひらを反すように現在の私は心から思います。
お坊さんの修行とスピリチュアル覚醒者の関連性
お坊さんとは、宗派によって資格を取得する工程やある程度の地位に就くプロセスに違いはあるのでしょうが、
何年間も山に籠もりました!とか、
厳しいお寺で長期間修行しました!!とか、
よく聞くお話ですが、予め定められた同じ修行工程を辿っても「過酷さ」の感じ方って、個人個人大きく異なるのかなぁなどとも思うのです。
修行したある人にとっては、耐え難い苦痛の日々の連続であっても別の人では、内心「そこまで辛くないけど、周囲に併せてしんどい表情をしておこう」みたいな要領の良い人って、多少なりともいると思うのです。
もし、お釈迦さまと同じ修行を行ったからスゴイ!などと言われていた人がいたと仮定した場合、同じ修行でもお釈迦さまにとっては大いに過酷な修行だったかもしれませんが、再現して同じ修行を行った人とでは、「過酷さ」の感じかたは、残念ながら絶対に異なるとも思いませんか?
ヴィーガンの致命的欠点とスピリチュアル的進歩とは!?
①ヴィーガン思想のスピリチュアル的、致命的欠陥もあるのかも!?
ヴィーガン思想の人の致命的な欠点の1つとして、植物の生命の搾取については、許容されていることでしょう。
小声でささやく程度に「野菜も生きてます!」と謙虚に申し上げさせていただきます。
私は植物にもヒーリングを行うのですが、私にとっては動物であろうと植物であろうと食事前には生命を頂く事に感謝していますし(たまに忘れますがw)、そこでラインを設定してはいないので、自由に食べたいものを食べ、自由に飲みたいものを飲みます。
ヴィーガンの推奨に動物愛護の軸が大いに機能している場合ですと、例えば、野菜も収穫される際やまな板の上で、包丁で切られる際に動物のように泣きわめけば、同様に可哀想だという定義になるということなのでしょうか?
果たしてヴィーガンの人は、植物の声が聴こえるようになってしまった後でも、同じ主張が可能だったりもするのでしょうか?
少し嫌味に聞こえたら、すみません。
②実は謎多きスピリチュアル的進歩の効果
仮に発信者の人が「私はこんな過酷なことをしてきたから、こんなにスゴイです。なので、みなさんも同じようにしましょう」みたいな発言と受け取る側の理解があったと仮定しましょう。
しかし、全く同じ条件で、同じ修行を行ったからといっても人によって「過酷さ」に差異が生じるため、発信者の人と同じ成長は見込めない可能性も多いに高いことは、残念ながら明白な事実です。
それでも本人の自由意思より、あなたが何を選択するのかは自由です。
とは言っても私は、やらなくて後悔するよりは、やって後悔した方が良い派ですので、行って結果を体感するのもたいせつだとも思います。
③自分で自分の首を絞めている可能性も
いつのまにか自分で作った自分ルールや自分で自分に科したルールに縛られて、そのことをすっかり忘れてしまい
「何故わたしは自由にできないのだろうか?」
と真剣に長期間悩み続けてしまい、大変な思いをしていらっしゃる人は、残念ながら意外と多いのかもしれません。
何かに縛られ過ぎても窮屈で上手くいきづらいですし、本来自分自身を最も縛っているのは、自分自身であることに気付くことが重要な人もいるのかもしれません。
自分には関係ないことだ!とヴィーガンのひとを嘲笑ってしまう感情
今回に限らず、他人ごとのように心の中で笑われていらっしゃる人も実は要注意かもしれません。
他人の不幸を喜ぶ感情とは、だれもが多かれ少なかれ経験したことがあるのではないでしょうか?
お恥ずかしい話ですが、かつての私は、人一倍この感情を色濃く持っていたと思います。
このどす黒い感情は、ドイツ語で「被害者・損害」を表す シャーデン(Schaden)と、喜びを表す フロイデ(Freude)を合わせた シャーデンフロイデ(Schaden Freude)という心理学用語が名付けられています。
「人の振り見て我が振り直せ」
私が耳に胼胝(たこ)ができるほどに幼少期から祖母に言われ続けた言葉です。
私も直すべきところもまだまだ沢山ありますし、常に襟を正す姿勢は大切であると、最近更によく思い出します。
まとめと独り言
「食事」に対する着眼点は大いに素晴らしいと思います。私も今後改めて食事内容を見直す医食同源みたいな姿勢は、積極的に見習うべきでしょう(反省)
しかし、ヴィーガンになることやヴィーガンで居続けることに対しては、本人が無理をしてまで行う事ではないのかなぁと個人的には思います。
常に何を選択・決定し、実行するのかはあなたの自由です。
思想は更により自由です。
私もスピリチュアル的進歩に伴い、味覚が魂の闇夜で大幅に変化し、魚貝類が食べられなくなりまいた。お寿司NGです(泣)
しかし、それはあくまでも私にとっては自然な流れに身を任せた結果ですので、
自然となんとなくヴィーガンに成り、100%純粋にあなたに馴染んでいる
のであれば、それは本来のあなた自身だと思いますので、大いに良い展開であるといえるのではないのでしょうか。
また発信者の人の営業戦略として、「○○を禁止!」などと発言すると、ある一定数の人数を囲いやすいので、それも1つのとても良い営業手法だと思います。
「甘いものにアリがつく」のことわざのように今後は、私も甘いものを考案・検討してみたいと思います。
私は個人的には、どんどん明確に意図して、みなさんがそれぞれ本来の自分の持つ能力・思考や思想を思い出せる人々を莫大に増やしたいと思っている(秘かに企んでいる)ので、どちらが正しいとか、間違っているとかの判定はないと思います。
そして、今回はわかりやすい「ヴィーガン」の人のエゴの解消をテーマに取り扱いました。
大変な思いを長年されて、長期間に渡り「いい加減、大変な思いを長い時間行わなくても進歩したい!」というご意思や進歩に対する「取引」をもうそろそろご卒業したい人がいらっしゃっいましたら、ご相談いただけたら幸いです。
あなたの「棚から牡丹餅」の日々の連続シーズン到来も良いかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ぼくはニンジンがすき♡
私はレタスとピーマン・じゃがいもがスキです♡
とうもろこしも~♪